OHTAKI'S MODERN CARTOON

 垣根の垣根のの巻

イヤーまいったまいった。

ヒトヅキアイというのはほんとうにたいへんです。

誰しも他人との間には垣根があると思うわけです。
その垣根がすごく高いひともいるし、ムッチャ低いひともいる。
高い垣根のひとと、低い垣根のひとと、 親しくなるということは、お互いの垣根の高低差をやりくりするってことじゃないのか。

高い垣根をもつものは、低い垣根のひとのずかずか踏み込んでくるかんじに「ちょっとこまったことになったなあ」と思う。低い垣根のひとは、どう思っているかというと。

うーん。踏み込んだことがないわけでもないですが、やっぱその時は「アラごめんあそばせ」くらいのことだった気がする。ここが垣根の低さ怖いとこだわな。

誰しもが自分を基準にするわけです。それしかしようがない。
自分が高い垣根をもっていたら、他人にもその高さで接する。
たぶん、低い垣根を持っていたら、他人にも低い垣根で接するんじゃないかな。

低いひとは、好きに踏み込んでりゃいいさ。
「コミュニケート至上主義」みたいなひともいるしな。それは、そのひとにとって、とても大事なことなんだろう。

でも垣根が高いひともいる。たしかにいる。高いひとは、やっぱり、どーうしても、どーうしても、この高さを守りたいわけですよ。それはワガママなんですかね?そういう姿勢は低い垣根の人にはご不満らしい。こちらの要望は、なかなか通じません。しまいに、大きなお世話を焼かれたりな。
ふー。
ああ、まいったまいった。

まあ、わかってくれなくても構わないと思うんですよ。
「わかって」なんて、そんなこと、他人に期待するほうがどうかしている。そういう期待って、ちょっと、いかがなものかね。

わたしは、わかってもらわなくても、じぇんじぇん構わないですよー。

わからなくてもいいから、わからないなりに、高い垣根もあるということを覚えて欲しい。ひょっとしたら、それは理解なんかよりも、ありがたいかもしれない。

「理解」なんかまったくあてにならないもんなあ。
理解っていうのは自己満足のための誤解のかたまりなんじゃないだろうかなあとうたがっています。誤解という理解。おなじものを見ていることに変わりはないわけで。

理解しているような気がすることも、理解できないと思っていることも、ないわけでもない。でもそんなのがいったい何になるですかい。理解しなくてはなにもできないってわけでもない。理解なんかしなくても身体はうごくんだよーん。だ。
理解はしなくても、わたしはだれかを好きになることだって、嫌いになることだってできる。息だって、できてます。

わたしは高い垣根で暮らしています。
わたしには、それでじゅうぶんだ。
 

tulipa@mamioh.com *MAMI OHTAKI*

BACK TO [NONKI de GO! / MENU]