わたしはおもいたったらすぐに財布をもって飛び出すことにしています。
そうしてどこかへ行ったり映画をみたり凧をあげたりただの散歩をしたりするわけですが、そういう事をしながら、その先々で、シミジミと思います。
財布さえ持っていればたいていのことは自力で解決できます。電話がかけられるし(携帯持たず)、乗り物にものれる。飛行機も新幹線もバスもタクシーも船もどんと来い。行く先々で小腹が空こうが、欲しいものをみつけようが、財布さえあればあとはじぶんがどうしたいか決めるだけです。 そしてフト思い出すのは彼女のことです。 「かいものしようと町まででかけたら、財布をわすれて、ゆかいなサザエさん」 わたしはサザエさんのこういうところには本当についていけません。 サザエさんはどうやって帰るつもりなのでしょうか。察するにスクーターで配達中の酒屋の三郎さんやタイコさんにうまいぐあいに出くわしてお茶目に舌なんかぺろっと出してバス代とかを借りるつもりなんでしょうかね?いやだいやだ。あまったれんなよな。 だいたい財布を忘れたらどうなるか。
お金がすべてよオホホホホ、てことじゃなくて、財布を持っていることで「選択できるということ」を得ているんではないかと思うわけです。 焼き鳥は匂いだけでもうれしいし、銭湯は入らなくてもかまわない、バスには乗らなくても問題ない、アマリリスだっていま見つめられればそれで十分。 本当は、それでもてんでかまわないんだ。 ただずっと歩いていたってぼんやりしてたって面白いことはいっぱいある。
おいしいものを発見したり、銭湯でのぼせたり、得体のしれない場所に着いたり、花束を抱えて歩いたり。そんなすてきなことを選ぶこともできる。 「選ばないという選択をする」というのと、「選ぶことができない」というのはものすごい差ですよ。そのことに思いがいたれば財布をわすれるなんてことはしようと思ってもなかなか出来ることではないんでないかなあ。わたしは出かけるとき何度もなんども財布を確認しますね。ハンカチなんかはどうでもいい。 サザエさんはふらっとどこかへ行こうと思ったり突然何かをしたくなったりはしないのかな。 うーん。しないのかもしれないですね。
だんだん盛り下がってきてしまいました。 単にわたしが堪え性がないとか、思いつきで動きすぎるだけのような気がしてきました。申し訳ない。
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