スペシャルなヒトコトっていうのがあると思います。
このヒトコトは他の誰が言ってもこのひとほど力を持たないだろうというか、そういうもの。そういうヒトコト。 例えば、オカモトさんという知り合いの女性が、ある団体を「うじ虫のようなやつら」というとき、わたしは心底しびれます。
そのひとにはそのひとの語彙というものがある。そのことばを使うようになる土壌のようなものが、そのことばの底力を引き出すというか。
「言霊」ということばを最近ちょくちょく見かけるようになりました。そのうち「カリスマ」のようなことになるんだろうなと思っています。オトだけがひとりあるきといいますか。まあそれはそれでプラスチックのおもちゃみたいに遊べばいいものなんで別にいいもわるいもないんですが。 でもたしかにことばにはタマシイというか髄のようなものがあるんじゃないですかね。だから、自分の中に無い、慣れないことばを使っても意味が逃げていく。 例えばわたしなんか「真の芸術」とかさ。オホホホ。例としてもすでに笑えるくらいスカスカだ。「真の芸術」なんて考えたこともないしそんなもんあるとも無いともまったく身体の外のことばだもの。ナンノコト?って気がする。無知ですんません。
「なにほざいてんだコイツ」と思われるようじゃ、だめなんだと思います。
ことばっていうのはそういうものなんじゃないでしょうかね。
だからことばはこわくてたのしい。わたしはことばがすきですね。まったく信用してないけど。 親しくなるうちに相手にわたしの語彙がうつってしまうことがあります。オトだけがうつってしまっているときはすぐわかる。その人のなかにそのことばを使う土壌がないのでバランスの悪いつぎはぎの服みたいでとてもヘンテコだ。 そのひとはそのひとの語彙で話してくれればいいのに。
わたしのことばであなたのことをはなされてもわたしにはわからない。 そう、わからなくなってしまうんですよ。 たまたま同じ様なことを考えていて、わたしだか相手だかの語彙がぴったり納まるときはふたりでそのことばを使います。それはとてもたのしいことだと思うんですよ。 そして、どんなに長くつきあっていてもどんなに長く話しあっても、まったく語彙がうつらない人がいます。わたしはこういう人と話しているとすごく安心します。あなたはあなたでわたしはわたしだ。別々でへっちゃら。そういうことがすごくうれしい。うれしくてしょうがない。 そしてそんなひとたちはみんなスペシャルなヒトコトを持っているような気がします。わたしのヒトコトはなんだろうと思ったりしますね。あったとしたら。ここまで来て「ねえよ」と言われましても立つ瀬ないわけです。
|