OHTAKI'S MODERN CARTOON

スペシャルなヒトコト の巻

スペシャルなヒトコトっていうのがあると思います。
このヒトコトは他の誰が言ってもこのひとほど力を持たないだろうというか、そういうもの。そういうヒトコト。

例えば、オカモトさんという知り合いの女性が、ある団体を「うじ虫のようなやつら」というとき、わたしは心底しびれます。
「うじ虫のようなやつら」なんていうのは誰もが使うようで、あんがい難しい。テレビで若い辛口女性タレントがこれを言ったときは「はいはいおじょうちゃんオカモトさんとこで修行しておいで」という気持ちになったもんです。

そのひとにはそのひとの語彙というものがある。そのことばを使うようになる土壌のようなものが、そのことばの底力を引き出すというか。
ああ、このことばは、こういうことだったのか、と気付かされる。
ことばがね、めざめるというか。あの「うじ虫」を聞くと、まあそういう大袈裟なことも言いたくなるわけです。

「言霊」ということばを最近ちょくちょく見かけるようになりました。そのうち「カリスマ」のようなことになるんだろうなと思っています。オトだけがひとりあるきといいますか。まあそれはそれでプラスチックのおもちゃみたいに遊べばいいものなんで別にいいもわるいもないんですが。

でもたしかにことばにはタマシイというか髄のようなものがあるんじゃないですかね。だから、自分の中に無い、慣れないことばを使っても意味が逃げていく。

例えばわたしなんか「真の芸術」とかさ。オホホホ。例としてもすでに笑えるくらいスカスカだ。「真の芸術」なんて考えたこともないしそんなもんあるとも無いともまったく身体の外のことばだもの。ナンノコト?って気がする。無知ですんません。

でも本当にこのことばやその意味を信じている人はきっといて、その人が使えば違和感がないのだと思います。すごく説得力があるのだと思います。
でもわたしじゃだめだ。このことばを知らないんだもの。信じてないんだもの。

「なにほざいてんだコイツ」と思われるようじゃ、だめなんだと思います。
キビチー。

ことばっていうのはそういうものなんじゃないでしょうかね。
根拠なんかないです。
わたしがそうかんじているだけで。
そして「なにほざいてんだコイツ」という、反射的にされる評価はあんがい捨てたもんじゃないとも思っています。

だからことばはこわくてたのしい。わたしはことばがすきですね。まったく信用してないけど。

親しくなるうちに相手にわたしの語彙がうつってしまうことがあります。オトだけがうつってしまっているときはすぐわかる。その人のなかにそのことばを使う土壌がないのでバランスの悪いつぎはぎの服みたいでとてもヘンテコだ。

そのひとはそのひとの語彙で話してくれればいいのに。
わたしが出会ったときは、そのひとはそのひとの語彙で話していて、それで会話はなりたっていたのに。

わたしのことばであなたのことをはなされてもわたしにはわからない。

そう、わからなくなってしまうんですよ。

たまたま同じ様なことを考えていて、わたしだか相手だかの語彙がぴったり納まるときはふたりでそのことばを使います。それはとてもたのしいことだと思うんですよ。

そして、どんなに長くつきあっていてもどんなに長く話しあっても、まったく語彙がうつらない人がいます。わたしはこういう人と話しているとすごく安心します。あなたはあなたでわたしはわたしだ。別々でへっちゃら。そういうことがすごくうれしい。うれしくてしょうがない。

そしてそんなひとたちはみんなスペシャルなヒトコトを持っているような気がします。わたしのヒトコトはなんだろうと思ったりしますね。あったとしたら。ここまで来て「ねえよ」と言われましても立つ瀬ないわけです。
 

tulipa@mamioh.com *MAMI OHTAKI*

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