OHTAKI'S MODERN CARTOON

ほねのゆくえの巻
20060820

猫の骨が、白 い袋にくるまってつくねんと机の上に鎮座しています。
お花を飾って毎日お線香をあげています。

猫の居ない生活も2ヶ月強、ときどき、猫のいつものしぐさを思い返してみたり、息を引き取る前の数時間を丁寧に思い出しています。辛くないわけがありませ ん。はげしく、かなしい。治りかけている傷の瘡蓋を剥ぐようなことをしているのは、まだこの傷を痛がっていたいからでしょうか。猫の居ない生活に慣れてし まいたくない、あからさまにそう思っている自分にも困ったものですが、あのかわいい三毛猫はわたしの生活そのものでありました。

最近、この骨をどうしたらいいか考えています。とりあえずわたしが死ぬまでは一緒に暮らせるけれども、こうやってわたしに執着されて猫的にはどうか。 ひょっとして「いい加減にしろ」と思っているかもしれません。わたし自身がそういう傾向にあるのでついそれを心配してしまいます。そうなるとやはりお墓で すがあまり遠いのは寂しい。かといって地主でもないのでそこらへんに埋めるわけにもいきません。

しょうがないんでわたしの墓でも買おうかと思うようになりました。先に入って貰って、いつか自分も入ればいい。本来、自分の墓は要らないと思っているので すが、昨今、散骨は世間様に迷惑がかかります。自分でやれることならいいですが、わたしはそのとき死んでいるので誰かに頼まねばならない。面倒。

死んだらガンジスの川岸で燃して、灰を箒で川に掃き入れてしまうインドは、すがすがしいよなあ。死に際はインドですごそうかしらとも思います。燃すときに 猫の骨を抱えて燃して貰えれば嬉しいのですが。そして猫がそれで了解してくれるといいのですが。

わたしには信仰がないので、猫の心のようなものが、どこかに行ってしまったという発想がありません。ただ、個体として消えていってしまったということでい いような気がする。すくなくともわたし自身の死はそれがいいなと思っています。猫に会いたいのはやまやまですが、「死んだらあの世でまた会える」というふ うには考えられない。だからこんなに悲しいのかもしれません。わたしには今生の別れがすべての別れです。かといって悲しくなくなるためにいわゆる来世、 「天国」「極楽」ついでに「生まれ変わり」などなどを信じはじめるつもりもない。

そういう考えを否定するわけではありませんが、同調できないの。猫が身罷ってから、いろんなことを言ってくださったみなさん。ありがとう。気持ちが嬉しい です。
でもわたしは天国や極楽が最高の場所だとは思っていない。
場所を必要としないことがベストなのです。
tulipa@mamioh.com *MAMI OHTAKI*

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