老猫が居なく
なって、しみじみと噛みしめているのは「たいせつなものを失う」ということです。 わたしはいままでたいせつなものを失ってきませんでした。ありがたいことのような気もしますが、みっともいい話でもありません。 お気に入りの物は無くしたことがありません。そもそも忘れ物や落とし物をしたこともありませんし、珍しく落としたアンティークの腕時計は親切な人に拾われ て帰ってきました。天災や人災の被害もなく、両親兄とも健在で五体は満足です。先日手術で出 産機能を失いましたが、子供が欲 しいわけでもないので特に思い入れもなく、不便でもありま せん。入院も味わいのある思い出です。お葬式に出たことも数回ありますが、故人はよく知り合う前の人や、距離が縮まらなかった人や、そもそも遠い人だった り。 生きている人との別れも無いわけではないですが、どれもそもそも縁がなかったというか、しょうがないと思えるものでした。相性だったり、嫌われたり、呆れ られたり、こっちが愛想を尽かし たり。そもそもたいして人との付き合いは多い方ではなく、さほど好きでもありません。 ほんとうに、いままでわたしはなにをしてきたんでしょうか。 うまれてはじめて、だいじなものを失うという気持ちを噛みしめています。 わたしは常日頃、なんでじぶんはこうも傲慢に出来ているのかが不思議でしょうがありませんでした。無意識すぎて治らないのです。もう長いこと困っていまし た。 だいじなものを失ったことがなかったのです。傲慢になるのも無理はないや。ははは。 なんとも脳天気で呆れた43年間でありましょうな。 だいじなもの。 あの猫はわたしにとって、日常であり、習慣であり、かといってわたしの「一部」かというとそうではなく、あきらかに理解不可能な「他者」で、それでも 一緒に居られた。一緒にいるのが嬉しかった。 だからこそ特別で、 大切だったのです。 ひょっとしたら、あの猫は、わたしが初めて自分から進んで持ったわたしオリジナルの家族なのかもしれません。 血縁の家族はあります。でも、わたしが自分ではじめて意識して持ったはじめてのかぞく。わたしと、猫と、あとから参加してきたツレアイと、3つの 個体で居るときのあの幸せなバランス。 特別な「他者」を失うというのは、つらいことです。 そんなことは言わなくてもわかっていることなのかもしれません。でもやはりわたしは、わかっていなかったのです。 |