名前とは呪で
ある、と夢枕漠さんの「安倍晴明」は言います。 わたしはなによりここに感銘をうけています。 名前が付くことでそれはその「もの」になってしまう。 名前がつくことで存在が発生する。そのふしぎさ。たとえば「ニート」なんて言葉が生まれるまでは、単に無職の若者たちで、その"無職"には意味があるよう な無いような状態だった。でも「ニート」という名前を付けられた瞬間、”無職”になにやら意味が生まれ、彼らは「ニート」というものになっていく。あの、 意味の発生感。ただの気のふさぎも「鬱病じゃない?」と言われれば「鬱病なのかな?」という気がしてくる。そのときすでにそのひとは鬱病ということに自分 をしてしまう。自分に「鬱病」という呪をかけてしまう。わたしを扱いかねていた人が「おおたきさんはつかみどころのない人だから」と誰かがいうのを聞い て、わたしに「つかみどころのない人」という名前を付けることでやっと落ち着いたという瞬間を目撃したこともあります。 名前とはふしぎなものです。 猫が身罷って一ヶ月が経とうとしています。 まだまだ、かなしい。猫が居なくなったことで、わたしは、日常と、習慣を、ごっそりと失ってしまいました。猫の存在が日常であり、猫が習慣だったのです。 朝、まず枕元に座って待つ猫にお早うをいい、しばらく撫でながら咽の鳴るのを聞き、足にまとわりつく猫にけつまづきながら新しいご飯を用意する。朝のほん の30分ですが、ここから猫がかっぽりと抜け落ちてしまっては、もうすべて違うことがおわかりになると思います。しかもわたしは自宅で仕事をするのでもう 朝から晩までみっちりと猫と向かい合っていたのです。 それでもまだ49日まではと思って朝夕のご飯を用意し続けているので、若干は習慣に猫が関わっています。 ただ、名前だけは抜け落ちたままです。 呼ぶ対象が居なくなってしまっては名前を口にする機会はさほどありません。 わたしがかなしいのは猫の名前がわたしの生活から消えてしまったことなのかもしれません。猫の名前を呼ぶ、猫がにゃあと答えるなりこちらを見るなりする。 その幸せ。名前を呼ぶ幸せ。名前を呼べると言うことはそこに猫が存在するということです。存在するから名前が呼べる。 名前とは存在の証明なのかもしれません。 いま、居なくなってしまった猫の名前を呼ぶ。 存在はしないけれども名前を呼べば、「存在しないという存在」として猫を日常にとりいれることができるからです。 名前を呼ばなくなったら、だんだん、猫が「本当に存在しなくなっていく」ようで。 わたしの生活から、だんだん、薄くなって、本当に消えていっちゃうようで。 それがこわくてたまらない。それがかなしくてたまらない。 そんなかんじでわたしは、ツレアイが居ないときやお風呂やトイレでこっそり、猫の名前を呼んでいます。呼べば呼ぶほどなにも変わらないことに悲しさも募り ますが、どうせ悲しいのです。 |