さいきん、若いひととはなしていると、いつのまにか、じぶんが、なにかを「教えよう」としていることに気がつきます。
昔の文化や、風習、ささいな言い回し、ことわざ、あれこれ。
よくないね。
そうはおもいませんか。
わたしは、非常によくない、と反省しています。
わたしが好き放題くっちゃべっていることを向こうが勝手に汲み取ってくれるのは問題ない。
問題はわたしが無意識に、あるいは意識的に、「教えよう」なんていうオコガマシイ考え方をしていることにあります。
「教えよう」なんていうのは、自分が上だと思っている発想なんじゃないですかね。
まあ、年は上ですが、わたしの場合、単に昔に生まれただけといいますか、あまりたいしたこともしないで漠然と時間を過ごした結果、たまたま年上になっているというそういう状況のことが多いです。
というわけで、たいしたことを知っているわけではない。こういうのは正確なもんで、やってきたぶんのことしか、しらないわけです。イヤー人生ってのは公平にできてますな。
たいしたことを知ってるわけでもないのに、教えたがる。
たいしたことを知ってるわけでもないからこそ、教えたがるんだろうな。
はずかしい。
はずかしいことです。まったく。
なにを偉そうにわたしは風を吹かしているのだろうな。
ナントカ風を吹かしているなんていうのは、だいたいにおいてみっともない。
風なんてものはどこから吹いているかわからないけれども、やっぱり何かが動いたりそよいだり舞い上がったりする、その理由のないチカラがすばらしいんであって、だから風が吹く場所っていうのはわくわくするんじゃないですかね。
自分で吹かしてるようなへっぽこ風じゃ、女の子のスカートをまくることも出来ないす。
というわけでしょぼくれている春。
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